日米修好通商条約は不平等ではない?!
ハリスと狆
幕府 数千匹の犬調べ
のお話をします。
日米修好通商条約締結
1854年 日米和親条約 ペリー
1858年 日米修好通商条約 ハリス
日米修好通商条約について、不平等条約と教わりませんでしたか?
最近 出会った本が「新説の日本史」
「日米修好通商条約は不平等ではなかった!?」
とても面白いのでぜひお手にとってご覧ください。
1854年(嘉永7年)マシュー・ペリー来航「日米和親条約」(神奈川条約)が締結
下田(横浜開港の半年後に閉鎖)と箱館(現在の函館市)が開港。
ペリーが連れ帰った初めての日本犬 狆についてはこちらをご覧ください。
1856年(安政3年)アメリカの外交官タウンゼント・ハリス来日
1857年(安政4年)「下田協約」を締結
日米和親条約と下田条約の違いは日米、日米和親条約 港での燃料、食料補給のみ。
下田条約が実質の開国。下田と函館の外国人居留を許可。
1858年(安政5年)ハリスの積極的な日本開国への働きかけによって「日米修好通商条約」締結
下田条約が実際に行われたのはこの時。
この条約にマイナスイメージを持っていた理由
高校の授業で、日米和親条約と日米修好通商条約の違いについて試験に出ました。先生は、不平等条約であることを強調し、私が個人的に本を読むとすっかりマイナスイメージとなりました。
学校で習ったことは
「犯罪を行ったアメリカ人を日本側が裁判できない治外法権
日本側が関税自主権をもたない、など、 日本に不利な不平等な内容のもの。」
ハリスが「不平等な」条約締結に向けてかなり強硬な態度であったこと
ハリスのお世話役として派遣された女性が自○したこと
ハリスの通訳ヒュースケンが攘夷派に江戸で○害されたこと
マイナスイメージしかないこの条約。
狆飼い主にとって コロっと心変わりする事実が・・
ハリスは2匹の狆を飼っていた!
調べるうち ハリスって犬好きで、とても良い方だったと思えてきたのです。
歴史の教科書鵜呑みにして、人生終わらせてはいけませんね。何事も自分で調べ、動かねば。
ハリスはアメリカの初代日本総領事。
1856年通訳のヒュースケンと共に下田に上陸。
玉泉寺を領事館としアメリカ国旗を掲げます。
通訳のヒュースケンは動物が苦手だったかも・・
通訳ヒュースケンは、下田の町を歩くと犬に吠えられ続けます。
この当時、日本の犬は 里犬 でした。
里犬は自分たちのテリトリーに入った見知らぬ外国人を吠え続けます。
ヒュースケンはそもそも、動物が苦手だったのかも知れません。
犬に関しては「牙を向けられ」
猫については「この冷淡な動物だけが我々を最上の接待役になり 私も随分と落魄れたものだ」としています。 笑
下田の犬たちが、外国人全てに吠えたわけではありません。
「狆のカテゴリー」で狆について言及していた、英国エルギン卿使節団には全く吠えず、この一行が連れてきた犬に興味を示し、人と共に集まってきた、というのです。
ハリスと狆
ハリスは8月に来日。11月に幕府から2匹の狆を献上されます。
「エド」と「ミヤコ」
タウンゼント・ハリスの狆についての記述です。
「日本滞在記」1856年11月15日
日本人が非常に立派な2匹の小犬を持って来てくれた。
丸い弾丸のような頭 短い鼻
キング・チャールズ・スパニエルのような大きくて飛び出した目
耳は短い
身体の毛も短い
耳と毛を除いては、キング・チャールズ・スパニエルとそっくりで、その系統であると疑わない
動物好きハリス 数千匹の犬調べ
ハリスは領事館で この2匹の狆と 鶏、鳩、カナリアを飼っていました。
ハリスの動物観察眼にまつわるお話が「ニューヨーク・タイムズ」1858年11月18日号に掲載されました
日米修好通商条約草案は、ハリスが英文、ヒュースケンがオランダ語訳、森山多吉郎と蘭法医の伊東貫斎が日本語訳。翻訳文を読み上げ、口訳と「莫大な骨折りであった」そうです。
この翻訳作業後、下田奉公の井上信濃守と「犬のしっぽ」の話になり、それがニューヨークタイムズの貴社の耳に入り、掲載されました。
ハリスがいうには、体に少しでも白い毛があったら、その尻尾に必ず白い毛がある、というのです。それで、各貴族が家来に命じて数千匹の犬を調べました。江戸は大騒ぎ笑
将軍様にもその噂が耳に入り、信濃守は背中に白い斑点、黒い尻尾の犬をハリスの元に連れて来ます。信濃守は勝ち誇った様子でした・・が、ハリスは「尻尾の先の毛をかき分けてください」と。すると、白い毛が出て来ました。
いくら探しても、「身体に白い毛があり、尻尾の先端は白くない犬」は見つけ出せなかったそうです。
馬の蹄鉄の作り方を日本人に教えたのはハリスです。それまでは、馬は草鞋を履いていたのです。この貢献は大きいですよね。
ニューヨークタイムズの記事より
ハリス氏は実に観察力がある人で、日本人の性格をよく把握している。
我々が勝ち得た成功(条約調印)は、すべて彼のおかげ、
そのやり方、東洋での長い生活体験、健全な判断、
にこやかな笑顔と確固たる態度のおかげである
としっぽ調べのエピソードともに掲載されました
不平等条約ではなかった?!
動物好きで、狆を飼っていたハリス、と知って、それまで抱いていた嫌悪感は、別な見方になって行きました。
まず 不平等条約ではなかった という点です
治外法権の件。この当時、外国に日本人はいませんでした。いないのですから、外国で日本人を裁くことを考える必要はないのです。明治維新後とは違います。
日本国内で外国人とトラブルが起きるか、というと、長崎は出島の状態、横浜からは川崎止まりで江戸までは動けない、そうするとトラブルは起こらない、という前提です。
関税自主権がない件。輸入税が20%ありました。当時イギリスの輸入税は5%でした。それを考えると、日本の輸入税20%は不利ではありません。
不平等になった改税約書は慶応2年に5%になった時からです。下関戦争で、長州藩が外国船を砲撃しました。その賠償金は、長州藩ではなくて、幕府が払うことになったのです。その担保としてこの関税になりました。長州藩の攘夷行動で不平等になった、というわけです。
アメリカは日本を植民地化したかったのか、という問題です。
それはありませんでした。ヨーロッパでは蚕が全滅していました。日本という市場は非常に重要でしたから、荒らしたくなかったのです。
日本などという小さい国を植民地化するのは、費用対効果に無駄、と考えていました。おまけに、サムライっていうのがおっかない。笑
幕府派遣の女性とヒュースケンのこと
敬虔なクリスチャンで、長崎で布教活動もしていたハリスが、動物の話、馬の蹄鉄、少しずつ幕府の信頼を得て進めていった条約でした。
ハリスは、来日して20キロ近く痩せてしまい、病気がちになりました。
通訳のヒュースケンが医療ができる人、を要請します。ここで女性、と頼んだのは通訳ヒュースケンです。
幕府は勘違いして、芸者のお吉を派遣します。
ハリス激怒!3日で解雇します。
このお吉が、その後、いろんなことを言われて不運に見舞われ、最後は自殺します。この話が昭和に「唐人お吉」として伝えられていたので、私はハリスに良いイメージがなかったのです。
下田市も人々の噂、とホームページで伝えています。私もハリスを調べるうちに、ハリスの容態がかなり悪い時の話で、幕府の勘違いに激昂したとの記録があり、勝手な憶測だと思いました。
ヒュースケンはなぜ「女性」と頼んだのか・・ハリスの記録には、犬の尻尾で一緒に仕事した下田奉公信濃守以外、幕府から派遣される役人は態度が悪かったらしいのです。男性だと何をされるかわからない、というのもあったのかも知れませんね。
ヒュースケンは、攘夷派によって殺害されてしまいます。
歴史は面白い
ペリー来航は、港の開港のみ、でした。
そこから一気に実際の開国に力を注いだのは、ハリスです。
想像さえできないほどの困難を乗り越え、条約に漕ぎ着けました。
その条約が、不平等条約として学校で教えられていました。
治外法権のこと、何より関税自主権はもともと日本にとって有利なものであるよう、ハリスが尽力したこと。それを長州藩がやらかしてしまった、と。微力な幕府、というように教わって来ましたけれど、それも違うのではないか、と益々歴史は面白くなって来ました。
狆にまつわる歴史 から見て行くと ハリスにも 魅力ある人物像が浮かび上がって来ました。
参考、引用
いかがでしたでしょうか。動画では、ひな祭りの手作り犬おやつを2種載せました。
ひな祭り手作り犬おやつ
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